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クチトンネルとは、サイゴン(現在のホーチミン市)の北西にあるクチ郡に張りめぐらされた、地下通路の網の目です。フランスとの戦争の時期に掘られ始め、アメリカとの戦争の中で大きく広がりました。ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)の兵士たちは、このトンネルで隠れ、戦い、物資を運び、首都の近くで活動を続けました。
1966年1月と1967年1月には、アメリカ軍、オーストラリア軍、南ベトナム軍がこの地域で大規模な掃討作戦を行いました。クリンプ作戦はホーボー森林で地上の捜索を行い、シーダーフォールズ作戦では、ベンスック村の住民が移され、村は整地されました。トンネルの中を調べたのは、拳銃とナイフ、懐中電灯を持って地下に入った志願兵、トンネルラットと呼ばれる兵士たちです。
この記事では、トンネルの起源、仕組み、トンネルラットの役割、2つの作戦、そして現在の姿を順にたどります。サイゴンを含む地域全体の流れは、サイゴンと南ベトナムの歴史で確かめられます。
クチトンネルの歴史:起源とその広がり
クチトンネルの始まりは、フランスとの戦争(第1次インドシナ戦争、第一次インドシナ戦争とも呼ばれます)の時代にさかのぼります。ユネスコの暫定リストの記載は、最初の隠れ場所が1946年ごろに、クチ郡の2つの村の住民によって掘られたとしています。その記載では、1947年までに2本のトンネルがつながり、約17キロメートルの網になったとされています。
一方で、多くの資料は、ベトミンが本格的に掘り始めたのは1948年ごろだとしています。当時は、フランスの植民地支配との戦いの最中でした。始まりの年には幅がありますが、どちらもフランスとの戦争の時期にあたります。小さな壕はやがて通路になり、通路が集まって地下の網へと育っていきました。
総延長の見積もりも、資料によって幅があります。およそ120キロメートルから250キロメートルとされています。いま見学できるのは、ベンズオックとベンディンの2か所です。ユネスコの記載では、この2か所に残る区間は合わせて約4キロメートルとされています。

鉄の三角地帯は、サイゴンの北西、クチ郡に近い地域です。後で見る掃討作戦の多くは、この同じ一帯を対象にしていました。地図で位置関係を確かめておくと、作戦の流れがわかりやすくなります。
トンネルの仕組み
中心となったのは、最大3段に重なった主要な通路です。段どうしは、上下に開くハッチでつながっていました。ユネスコの記載では、最上段はおよそ地下4メートル、3段目は地下7〜10メートルとされています。段を移る区間はジグザグに造られ、隠すためにも守るためにも役立ちました。
地下には、隠れ場所、会議用の部屋、食料や武器の保管場所、寝起きする区画がありました。広く作業できる場所もあれば、這って進むしかない狭い通路もありました。入口は、落ち葉や土で覆われた蓋で、地上からは気づきにくいように作られていました。換気のための竪穴は、煙や有毒ガスを外へ逃がす役割を担い、その一部はシロアリの塚のように見える土の盛り上がりに偽装されていました。
通路には罠も仕掛けられていました。尖った杭を穴に並べた足刺し罠や、仕掛けの爆発物などです。地下に入る兵士は、次にどこで罠に掛かるかを知らないまま進むことになりました。
段が何層にもなっていた理由は、地上の攻撃から身を守りつつ、別の段へ素早く移れるようにするためと考えられます。複数の段とハッチの組み合わせは、地上の捜索を地下の迷路に変えるための工夫でした。
この仕組みには、はっきりした目的がありました。地上では、砲兵や航空機の火力を使えます。しかし入口や竪穴、横穴を探すには、地下に入って捜索するしかありません。その地上の火力と地下の隠れ方との差が、トンネルをめぐる戦いの中心にあります。
トンネルラット:地下で戦う兵士たち
地上からの爆撃や砲撃では、地下の網を確実に壊すことはできませんでした。入口や横穴を見つけるには、地下に入って探すしかありません。そこでアメリカ軍は、トンネルの中を捜索する志願兵を募りました。彼らはトンネルラットと呼ばれました。統一された教範はなく、部隊ごとに、訓練や方法、装備を工夫していったとされています。
トンネルラットの多くは小柄な兵士でした。アメリカ陸軍の国立博物館は、大半の身長が5フィート5インチ(約165センチメートル)未満だったと伝えています。通路が狭かったためです。主な志願兵はアメリカ兵でしたが、オーストラリアやニュージーランドの兵士もいました。
基本の装備は、拳銃、ナイフ、懐中電灯でした。多くは単独で地下に入り、罠、有毒ガス、崩落の危険を、自分の判断で受け止めていました。どこを調べ、どこまで進むかを決めるのは、その兵士自身でした。
地下の捜索は、トンネルラットだけが担ったわけではありません。陸軍の公式な歴史書は、シーダーフォールズ作戦で、トンネル網に爆薬を張り巡らせて破壊する新しい方法が使われたと記しています。
掃討作戦:クリンプ作戦とシーダーフォールズ作戦
クリンプ作戦(1966年1月8日〜14日)
クリンプ作戦は、1966年1月8日から14日まで、サイゴン近郊のホーボー森林(ビンズオン省)で行われました。ホーボー森林は、開けた土地と密な密林が入り交じる地域です。アメリカ陸軍の歴史家によれば、第1歩兵師団の8000人が参加しました。初日、第173空挺旅団は3個大隊規模の部隊を地上に降ろしました。オーストラリア陸軍の王立オーストラリア連隊第1大隊(1RAR)も、この旅団に配属されていました。
1RARが担当した地域では、ベトコンの抵抗がもっとも激しかったとされています。その地域は、敵の地域司令部だったと、同じ歴史家は記しています。1月11日ごろには、サイゴンからカンボジア国境まで延びる大きなトンネル網の一部が見つかりました。オーストラリア兵は、その通路を調べ、数千点の文書、武器、物資を回収したと、オーストラリア戦争記念館は伝えています。
作戦は1月14日に終わりました。同じ歴史家によれば、拘束者は約600人、押収された文書は約150万点にのぼりました。トンネル網は一部が破壊されただけでした。クリンプ作戦は、地上の捜索でトンネルを見つけることはできても、網全体を単独で取り除くことはできないと示したのです。
シーダーフォールズ作戦(1967年1月8日〜26日)
シーダーフォールズ作戦は、1967年1月8日から26日まで行われました。米国戦没者記念委員会(ABMC)の記録で、日付を確認できます。対象はクチ郡と、隣接する鉄の三角地帯でした。第25歩兵師団が三角地帯の西側を封鎖し、第1歩兵師団、第173空挺旅団、第11機甲騎兵連隊が北と東から進みました。アメリカ軍と南ベトナム軍の大規模な部隊が参加しています。

ベンスック村の移住と整地
作戦の最初の大きな出来事は、ベンスック村でした。1967年1月8日、第1歩兵師団の第26歩兵連隊第1大隊が、ヘリコプターで村に降り立ち、午前10時30分までに村を確保しました。陸軍の公式歴史書は、村におよそ3500人、周辺の村に約2500人が住んでいたと見積もっています。
移された人の数は、記録上5987人です。内訳は、男性582人、女性1651人、子ども3754人でした。子どもは6割を超えていました。尋問と審査の後、106人が拘束され、そのうち28人がベトコンに分類されたとされています。村の戦闘では、最初の2時間半ほどで、約40人の敵が戦死したと記録されています。
1月10日には、南ベトナム軍の空挺部隊2個大隊が到着し、住民の移送と審査を引き継ぎました。これで、アメリカ軍の第1歩兵師団は作戦の別の地域へ振り向けられました。師団に残された任務は、村を壊すことでした。ブルドーザーが残骸を押しつぶし、トンネル網には爆薬が仕掛けられました。
ベンスック村の人々にとって、この作戦は家を失うことを意味しました。移された人の大半は女性と子どもでした。地下の戦いが、地上で暮らす人々の生活にどこまで及んだかを、この数字がよく示しています。アメリカ側の報告では、作戦全体で約700人の敵が戦死したとされています。
2つの作戦の比較
| 項目 | クリンプ作戦 | シーダーフォールズ作戦 |
|---|---|---|
| 期間 | 1966年1月8日〜14日 | 1967年1月8日〜26日 |
| 場所 | サイゴン近郊のホーボー森林 | クチ郡と鉄の三角地帯 |
| 主な部隊 | 第1歩兵師団、第173空挺旅団(1RARを含む) | 第1・第25歩兵師団、第173空挺旅団、第11機甲騎兵連隊 |
| 主な出来事 | トンネル網の一部が見つかり、約600人が拘束される | ベンスック村が整地され、5987人が移される |
| 結果 | トンネル網は一部が破壊されただけ | アメリカ側の報告で、約700人の敵が戦死 |
なぜ重要なのか
トンネルがあったことで、ベトコンはサイゴンの近くで、隠れ、物資をたくわえ、地下で会合を開くことができました。地上で米軍や南ベトナム軍が動いていても、地下の兵士は別の通路へ姿を消せたのです。1966年と1967年の掃討は、地上の火力が、多くの入口をもつ地下網にどこまで通用したかを示しています。
1968年のテト攻勢では、クチ郡がベトコンの拠点のひとつになりました。全体の流れは、テト攻勢(1968年)で確かめられます。戦争の後期には、大型爆撃機B52による空爆がこの地域を襲いました。上段の通路は大きな被害を受けましたが、網の一部は残りました。
1975年以降、ベンズオックとベンディンは管理と保護の対象になりました。ユネスコの記載によるものです。ベンディンは、2004年12月15日の文化省の決定により国の史跡に指定されました。ベンズオックも国の史跡として紹介されています。どちらも、今は見学できます。
試験に出るポイント
学習では、次の3点を押さえると流れがつかめます。第一に、ゲリラ勢力が首都の近くで地下網を使った理由です。第二に、1966年のクリンプ作戦と1967年のシーダーフォールズ作戦が、何を狙い、どこまで達成したかです。第三に、トンネルラットに代表される、地下での戦いの特徴です。年号は、1946年、1948年、1966年、1967年、1968年の順で整理すると覚えやすくなります。
次に読む記事
- テト攻勢(1968年):1968年の大攻勢が国内の各地でどう展開したかを追えます。クチ郡の役割も、その流れで理解できます。
- ホーチミン市の歴史散歩:現在のホーチミン市に残る歴史の場所を、順にたどって紹介します。
- サイゴンと南ベトナムの歴史:扶南の時代からの流れを整理し、この記事の背景を確かめられます。