0% • 残り8分

クチトンネルとは:地下に掘られた戦場

10月 30, 2026
クチトンネルは、サイゴン(現ホーチミン市)の北西にあるクチ郡に広がった地下トンネルの網です。1946年から1948年ごろに掘られ始め、ベトコンが隠れ、戦い、物資を運ぶために使いました。米軍は1966年と1967年に大規模な掃討作戦を行い、トンネルラットと呼ばれる志願兵が地下を捜索しました。

シリーズ: サイゴンと南ベトナムの歴史:扶南からサイゴン陥落まで

クチトンネルとは:地下に掘られた戦場

基本データ

場所
ベトナム、サイゴン(現ホーチミン市)の北西、クチ郡
起源
1946年から1948年ごろ、フランスとの戦争の時期
総延長
およそ120キロメートルから250キロメートルと見積もられています
構造
最大3段。上段はおよそ地下4メートル、深い段は地下7〜10メートル
主な掃討作戦
クリンプ作戦(1966年1月8日〜14日)、シーダーフォールズ作戦(1967年1月8日〜26日)
現在
見学できる史跡。ベンズオックとベンディンの2か所

年表

項目をタップすると詳しく読めます。矢印キーで移動できます。

  1. 1946年ごろ

    最初の隠れ場所が掘られる

    ユネスコの暫定リストの記載では、クチ郡の2つの村の住民が、最初の隠れ場所を掘ったのが1946年ごろとされています。フランスとの戦争の中で、短い通路と小さな壕が掘られ、隠れ場所として使われました。

  2. 1947年

    2本のトンネルがつながり、約17キロメートルの網になる

    同じユネスコの記載では、1947年までに2本のトンネルがつながり、約17キロメートルの網になったとされています。ばらばらだった隠れ場所が結ばれ、地下の網の始まりとなった節目です。

    1947年のほかの記事:1947年の記事をもっと

  3. 1948年ごろ

    本格的な掘削が始まったとする資料

    多くの資料は、ベトミンが本格的に掘り始めた時期を1948年ごろとしています。1946年ごろという始まりとは年に幅がありますが、どちらもフランスとの戦争の時期にあたります。

  4. 1960年代

    通路が広がり、3段の構造になる

    アメリカとの戦争の中で、地下網はさらに広げられました。主要な通路は最大3段に重なり、上段はおよそ地下4メートル、深い段は地下7〜10メートルとされています。総延長は、およそ120キロメートルから250キロメートルと見積もられています。

  5. 1966年1月8日

    クリンプ作戦が始まる

    クリンプ作戦で、トンネルに入っていくアメリカ兵
    Center of Military History, public domain, via Wikimedia Commons

    第1歩兵師団と第173空挺旅団が、サイゴン近郊のホーボー森林で作戦を始めました。第173空挺旅団は初日に3個大隊規模の部隊を地上に降ろし、オーストラリア陸軍の1RARも配属されていました。

    1966年のほかの記事:1966年の記事をもっと

  6. 1966年1月11日ごろ

    トンネル網の一部が見つかる

    サイゴンからカンボジア国境まで延びる大きな網の一部が見つかりました。1RARの兵士たちがその通路を調べ、数千点の文書、武器、物資を回収したと伝えられています。

  7. 1966年1月14日

    クリンプ作戦が終わり、網は一部だけ破壊される

    作戦は1月14日に終わりました。米陸軍の歴史家によれば、約600人が拘束され、約150万点の文書が押収されました。トンネル網は一部が破壊されただけでした。

  8. 1967年1月8日

    シーダーフォールズ作戦が始まり、ベンスック村を封鎖する

    第25歩兵師団が鉄の三角地帯の西側を封鎖し、第1歩兵師団、第173空挺旅団、第11機甲騎兵連隊が北と東から進みました。第1歩兵師団第26歩兵連隊第1大隊がヘリコプターでベンスック村に降り立ち、午前10時30分までに村を確保しました。

  9. 1967年1月10日

    南ベトナム軍の空挺部隊が移送を引き継ぐ

    南ベトナム軍の空挺部隊2個大隊がベンスック村に到着し、住民の移送と審査を引き継ぎました。これでアメリカ軍の第1歩兵師団は、作戦の別の地域へ振り向けられました。

  10. 1967年1月

    ベンスック村の住民が移され、村が整地される

    シーダーフォールズ作戦で、トンネルを這って進むアメリカ軍の軍曹
    Unknown author, public domain, via Wikimedia Commons

    陸軍の記録では、5987人が移され、そのうち3754人が子どもでした。審査の後、106人が拘束されました。村はブルドーザーで整地され、その下のトンネル網には爆薬が仕掛けられました。

  11. 1967年1月26日

    シーダーフォールズ作戦が終わる

    作戦は1月26日に終わりました。アメリカ側の報告では、作戦全体で約700人の敵が戦死したとされています。

  12. 1968年

    テト攻勢で、クチ郡がベトコンの拠点のひとつになる

    クチ郡は、1968年のテト攻勢でベトコンの拠点のひとつになりました。複数の資料は、この地域がサイゴンなどへの攻撃の準備地になったと伝えています。

  13. 1975年

    2か所のトンネル遺跡が管理と保護の対象になる

    ユネスコの記載では、保存されている区間であるベンズオックとベンディンは、1975年以降、管理と保護の対象になってきました。今は、どちらも見学できる史跡です。

  14. 2004年12月15日

    ベンディンが国の史跡に指定される

    文化省の決定により、ベンディンは国の史跡に指定されました。ベンズオックも国の史跡として紹介されています。

地図

地図をタップで拡大

  • 1967年1月、サイゴン北方の鉄の三角地帯で行われたシーダーフォールズ作戦を示す米陸軍の地図

    1967年1月の掃討作戦を示す米陸軍の地図。クチ地区に近い鉄の三角地帯が対象でした。

    Department of the Army, public domain, via Wikimedia Commons

  • 戦域CおよびDと鉄の三角地帯を示す地図。サイゴン周辺のベトコンの拠点です

    戦域CおよびDと鉄の三角地帯。サイゴン周辺のベトコンの拠点を示します。

    Unknown author, public domain, via Wikimedia Commons

5分でわかる

クチトンネルとは、サイゴン(現在のホーチミン市)の北西にあるクチ郡に張りめぐらされた、地下通路の網の目です。フランスとの戦争の時期に掘られ始め、アメリカとの戦争の中で大きく広がりました。ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)の兵士たちは、このトンネルで隠れ、戦い、物資を運び、首都の近くで活動を続けました。

1966年1月と1967年1月には、アメリカ軍、オーストラリア軍、南ベトナム軍がこの地域で大規模な掃討作戦を行いました。クリンプ作戦はホーボー森林で地上の捜索を行い、シーダーフォールズ作戦では、ベンスック村の住民が移され、村は整地されました。トンネルの中を調べたのは、拳銃とナイフ、懐中電灯を持って地下に入った志願兵、トンネルラットと呼ばれる兵士たちです。

この記事では、トンネルの起源、仕組み、トンネルラットの役割、2つの作戦、そして現在の姿を順にたどります。サイゴンを含む地域全体の流れは、サイゴンと南ベトナムの歴史で確かめられます。

クチトンネルの歴史:起源とその広がり

クチトンネルの始まりは、フランスとの戦争(第1次インドシナ戦争、第一次インドシナ戦争とも呼ばれます)の時代にさかのぼります。ユネスコの暫定リストの記載は、最初の隠れ場所が1946年ごろに、クチ郡の2つの村の住民によって掘られたとしています。その記載では、1947年までに2本のトンネルがつながり、約17キロメートルの網になったとされています。

一方で、多くの資料は、ベトミンが本格的に掘り始めたのは1948年ごろだとしています。当時は、フランスの植民地支配との戦いの最中でした。始まりの年には幅がありますが、どちらもフランスとの戦争の時期にあたります。小さな壕はやがて通路になり、通路が集まって地下の網へと育っていきました。

総延長の見積もりも、資料によって幅があります。およそ120キロメートルから250キロメートルとされています。いま見学できるのは、ベンズオックとベンディンの2か所です。ユネスコの記載では、この2か所に残る区間は合わせて約4キロメートルとされています。

戦域CおよびDと鉄の三角地帯を示す地図。サイゴン周辺のベトコンの拠点です
戦域CおよびDと鉄の三角地帯。サイゴン周辺のベトコンの拠点を示します。 Unknown author, public domain, via Wikimedia Commons

鉄の三角地帯は、サイゴンの北西、クチ郡に近い地域です。後で見る掃討作戦の多くは、この同じ一帯を対象にしていました。地図で位置関係を確かめておくと、作戦の流れがわかりやすくなります。

トンネルの仕組み

中心となったのは、最大3段に重なった主要な通路です。段どうしは、上下に開くハッチでつながっていました。ユネスコの記載では、最上段はおよそ地下4メートル、3段目は地下7〜10メートルとされています。段を移る区間はジグザグに造られ、隠すためにも守るためにも役立ちました。

地下には、隠れ場所、会議用の部屋、食料や武器の保管場所、寝起きする区画がありました。広く作業できる場所もあれば、這って進むしかない狭い通路もありました。入口は、落ち葉や土で覆われた蓋で、地上からは気づきにくいように作られていました。換気のための竪穴は、煙や有毒ガスを外へ逃がす役割を担い、その一部はシロアリの塚のように見える土の盛り上がりに偽装されていました。

通路には罠も仕掛けられていました。尖った杭を穴に並べた足刺し罠や、仕掛けの爆発物などです。地下に入る兵士は、次にどこで罠に掛かるかを知らないまま進むことになりました。

段が何層にもなっていた理由は、地上の攻撃から身を守りつつ、別の段へ素早く移れるようにするためと考えられます。複数の段とハッチの組み合わせは、地上の捜索を地下の迷路に変えるための工夫でした。

この仕組みには、はっきりした目的がありました。地上では、砲兵や航空機の火力を使えます。しかし入口や竪穴、横穴を探すには、地下に入って捜索するしかありません。その地上の火力と地下の隠れ方との差が、トンネルをめぐる戦いの中心にあります。

トンネルラット:地下で戦う兵士たち

地上からの爆撃や砲撃では、地下の網を確実に壊すことはできませんでした。入口や横穴を見つけるには、地下に入って探すしかありません。そこでアメリカ軍は、トンネルの中を捜索する志願兵を募りました。彼らはトンネルラットと呼ばれました。統一された教範はなく、部隊ごとに、訓練や方法、装備を工夫していったとされています。

トンネルラットの多くは小柄な兵士でした。アメリカ陸軍の国立博物館は、大半の身長が5フィート5インチ(約165センチメートル)未満だったと伝えています。通路が狭かったためです。主な志願兵はアメリカ兵でしたが、オーストラリアやニュージーランドの兵士もいました。

基本の装備は、拳銃、ナイフ、懐中電灯でした。多くは単独で地下に入り、罠、有毒ガス、崩落の危険を、自分の判断で受け止めていました。どこを調べ、どこまで進むかを決めるのは、その兵士自身でした。

地下の捜索は、トンネルラットだけが担ったわけではありません。陸軍の公式な歴史書は、シーダーフォールズ作戦で、トンネル網に爆薬を張り巡らせて破壊する新しい方法が使われたと記しています。

掃討作戦:クリンプ作戦とシーダーフォールズ作戦

クリンプ作戦(1966年1月8日〜14日)

クリンプ作戦は、1966年1月8日から14日まで、サイゴン近郊のホーボー森林(ビンズオン省)で行われました。ホーボー森林は、開けた土地と密な密林が入り交じる地域です。アメリカ陸軍の歴史家によれば、第1歩兵師団の8000人が参加しました。初日、第173空挺旅団は3個大隊規模の部隊を地上に降ろしました。オーストラリア陸軍の王立オーストラリア連隊第1大隊(1RAR)も、この旅団に配属されていました。

1RARが担当した地域では、ベトコンの抵抗がもっとも激しかったとされています。その地域は、敵の地域司令部だったと、同じ歴史家は記しています。1月11日ごろには、サイゴンからカンボジア国境まで延びる大きなトンネル網の一部が見つかりました。オーストラリア兵は、その通路を調べ、数千点の文書、武器、物資を回収したと、オーストラリア戦争記念館は伝えています。

作戦は1月14日に終わりました。同じ歴史家によれば、拘束者は約600人、押収された文書は約150万点にのぼりました。トンネル網は一部が破壊されただけでした。クリンプ作戦は、地上の捜索でトンネルを見つけることはできても、網全体を単独で取り除くことはできないと示したのです。

シーダーフォールズ作戦(1967年1月8日〜26日)

シーダーフォールズ作戦は、1967年1月8日から26日まで行われました。米国戦没者記念委員会(ABMC)の記録で、日付を確認できます。対象はクチ郡と、隣接する鉄の三角地帯でした。第25歩兵師団が三角地帯の西側を封鎖し、第1歩兵師団、第173空挺旅団、第11機甲騎兵連隊が北と東から進みました。アメリカ軍と南ベトナム軍の大規模な部隊が参加しています。

1967年1月、サイゴン北方の鉄の三角地帯で行われたシーダーフォールズ作戦を示す米陸軍の地図
1967年1月の掃討作戦を示す米陸軍の地図。クチ地区に近い鉄の三角地帯が対象でした。 Department of the Army, public domain, via Wikimedia Commons

ベンスック村の移住と整地

作戦の最初の大きな出来事は、ベンスック村でした。1967年1月8日、第1歩兵師団の第26歩兵連隊第1大隊が、ヘリコプターで村に降り立ち、午前10時30分までに村を確保しました。陸軍の公式歴史書は、村におよそ3500人、周辺の村に約2500人が住んでいたと見積もっています。

移された人の数は、記録上5987人です。内訳は、男性582人、女性1651人、子ども3754人でした。子どもは6割を超えていました。尋問と審査の後、106人が拘束され、そのうち28人がベトコンに分類されたとされています。村の戦闘では、最初の2時間半ほどで、約40人の敵が戦死したと記録されています。

1月10日には、南ベトナム軍の空挺部隊2個大隊が到着し、住民の移送と審査を引き継ぎました。これで、アメリカ軍の第1歩兵師団は作戦の別の地域へ振り向けられました。師団に残された任務は、村を壊すことでした。ブルドーザーが残骸を押しつぶし、トンネル網には爆薬が仕掛けられました。

ベンスック村の人々にとって、この作戦は家を失うことを意味しました。移された人の大半は女性と子どもでした。地下の戦いが、地上で暮らす人々の生活にどこまで及んだかを、この数字がよく示しています。アメリカ側の報告では、作戦全体で約700人の敵が戦死したとされています。

2つの作戦の比較

項目クリンプ作戦シーダーフォールズ作戦
期間1966年1月8日〜14日1967年1月8日〜26日
場所サイゴン近郊のホーボー森林クチ郡と鉄の三角地帯
主な部隊第1歩兵師団、第173空挺旅団(1RARを含む)第1・第25歩兵師団、第173空挺旅団、第11機甲騎兵連隊
主な出来事トンネル網の一部が見つかり、約600人が拘束されるベンスック村が整地され、5987人が移される
結果トンネル網は一部が破壊されただけアメリカ側の報告で、約700人の敵が戦死

なぜ重要なのか

トンネルがあったことで、ベトコンはサイゴンの近くで、隠れ、物資をたくわえ、地下で会合を開くことができました。地上で米軍や南ベトナム軍が動いていても、地下の兵士は別の通路へ姿を消せたのです。1966年と1967年の掃討は、地上の火力が、多くの入口をもつ地下網にどこまで通用したかを示しています。

1968年のテト攻勢では、クチ郡がベトコンの拠点のひとつになりました。全体の流れは、テト攻勢(1968年)で確かめられます。戦争の後期には、大型爆撃機B52による空爆がこの地域を襲いました。上段の通路は大きな被害を受けましたが、網の一部は残りました。

1975年以降、ベンズオックとベンディンは管理と保護の対象になりました。ユネスコの記載によるものです。ベンディンは、2004年12月15日の文化省の決定により国の史跡に指定されました。ベンズオックも国の史跡として紹介されています。どちらも、今は見学できます。

試験に出るポイント

学習では、次の3点を押さえると流れがつかめます。第一に、ゲリラ勢力が首都の近くで地下網を使った理由です。第二に、1966年のクリンプ作戦と1967年のシーダーフォールズ作戦が、何を狙い、どこまで達成したかです。第三に、トンネルラットに代表される、地下での戦いの特徴です。年号は、1946年、1948年、1966年、1967年、1968年の順で整理すると覚えやすくなります。

次に読む記事

  • テト攻勢(1968年):1968年の大攻勢が国内の各地でどう展開したかを追えます。クチ郡の役割も、その流れで理解できます。
  • ホーチミン市の歴史散歩:現在のホーチミン市に残る歴史の場所を、順にたどって紹介します。
  • サイゴンと南ベトナムの歴史:扶南の時代からの流れを整理し、この記事の背景を確かめられます。

軍と部隊

  • 1966年1月のクリンプ作戦で、ベトコンのトンネル入口に下りていくアメリカ兵(illustration) 歩兵 イラスト

    アメリカ軍

    第1歩兵師団の地下捜索兵(クリンプ作戦)

    1966年1月のクリンプ作戦で、アメリカ兵がトンネルの入口から地下に下りていく場面です。第1歩兵師団が作戦を率い、捜索兵は通路へ単独で入ることもありました。

    Illustration after Center of Military History, public domain · 元の画像

  • クリンプ作戦で見つかったトンネルの中にいるオーストラリア兵(illustration) 歩兵 イラスト

    オーストラリア軍

    トンネル内のオーストラリア兵(クリンプ作戦)

    クリンプ作戦で見つかったトンネルの中に入るオーストラリア兵です。王立オーストラリア連隊第1大隊(1RAR)は第173空挺旅団に配属され、ホーボー森林で地下通路を調べて、数千点の文書、武器、物資を回収しました。

    Illustration after Marshall, S.L.A, public domain · 元の画像

  • 1967年1月のシーダーフォールズ作戦で、狭いトンネルを這って進むアメリカ軍の軍曹(illustration) 歩兵 イラスト

    アメリカ軍

    US sergeant in a tunnel, Operation Cedar Falls

    1967年1月のシーダーフォールズ作戦で、狭いトンネルを這って進むアメリカ軍の軍曹です。

    Illustration after Unknown author, public domain · 元の画像

  • トンネルの入口で、消音装置付きの拳銃を構えるアメリカ軍のトンネルラット(illustration) 兵器 イラスト

    アメリカ軍

    消音装置付きの拳銃を持つトンネルラット

    トンネルの入口に立ち、消音装置付きの銃を手にするアメリカ軍のトンネルラットです。トンネルラットは小柄な志願兵が多く、拳銃、ナイフ、懐中電灯だけを持って手で捜索することもありました。

    Illustration after Julius Jääskeläinen, CC BY 2.0 · 元の画像

  • 尖った杭を穴に仕込んだ、ベトコンの足刺し罠(illustration) 兵器 イラスト

    ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)

    ベトコンの足刺し罠(パンジトラップ)

    尖った杭を穴に仕込んだ足刺し罠です。トンネルの入口や通路沿いに仕掛けられました。Commonsの写真の日付は1966年3月とされています。

    Illustration after Archives Branch, USMC History Division, CC BY 2.0 · 元の画像

  • シロアリの塚に偽装された、クチトンネルの換気孔(illustration) 工兵 イラスト

    ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)

    シロアリの塚に偽装された換気孔

    クチトンネルの換気孔を、シロアリの塚のように見せかけた例です。煙や有毒ガスを地下から逃がす役割を担いました。

    Illustration after Jorge Láscar from Australia, CC BY 2.0 · 元の画像

  • 小さなクチトンネルの蓋に入る方法を示す男性(illustration) 工兵 イラスト

    ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)

    偽装されたトンネルの入口

    トンネルに入るための小さな蓋を示す場面です。記念施設で行われている現代の再現で、戦時中の場面ではありません。

    Illustration after Thomas Schoch, CC BY-SA 3.0; this illustration CC BY-SA 3.0 · 元の画像

よくある質問

クチトンネルはいつ掘られましたか?

フランスとの戦争の時期に掘り始められたとされています。ユネスコの記載では、最初の隠れ場所は1946年ごろに掘られ、1947年までに2本のトンネルがつながって約17キロメートルの網になりました。多くの資料は、本格的な掘削を1948年ごろとしています。その後、通路はアメリカとの戦争の間に大きく広がりました。

ベトコンはなぜトンネルを使ったのですか?

サイゴンに近い地域で、隠れる、眠る、武器や食料を蓄える、傷病者を手当てする、会議を開くといったことを、地下で行うためです。地上の戦力では劣るベトコンにとって、姿を見せずに動けることは大きな利点でした。

トンネルラットとは何ですか?

トンネルの中を手で捜索した志願兵のことです。主にアメリカ兵で、オーストラリアやニュージーランドの兵士もいました。多くは小柄で、拳銃、ナイフ、懐中電灯を持ち、単独で地下に入ることもありました。決まった教範はなく、部隊ごとに方法を工夫したとされています。

シーダーフォールズ作戦では何が起きたのですか?

1967年1月8日から26日まで、クチ郡と鉄の三角地帯で行われた掃討作戦です。アメリカ軍と南ベトナム軍の大規模な部隊が参加しました。ベンスック村では5987人が移され、そのうち3754人が子どもでした。村は整地され、アメリカ側の報告では、作戦全体で約700人の敵が戦死したとされています。

今、クチトンネルは見学できますか?

はい、見学できます。ベンズオックとベンディンの2か所が、見学できる史跡です。ベンディンは2004年に国の史跡に指定されました。ユネスコの記載では、この2か所に残る区間は合わせて約4キロメートルです。

理解度チェック

答えを選ぶと、正解かどうかがわかります。

  1. クチトンネルの掘削が始まったとされるのは、いつごろですか?

  2. ベンスック村が移され、整地された作戦はどれですか?

  3. トンネルラットとは何を指しますか?

  4. トンネルの換気用の竪穴は、何のために使われましたか?

  5. 現在のクチトンネルはどのように使われていますか?

「サイゴンと南ベトナムの歴史」の関連記事

このテーマのまとめページへ →
共有:

著者について

Alex Ng
Alex Ng

Software Engineer & Writer

Software engineer with a passion for distilling complex ideas into actionable insights. Writes about finance, investment, entrepreneurship, and technology.

続きを読む →

続けて読む

このテーマを探る: サイゴンと南ベトナムの歴史

記事

テト攻勢(1968年)とは:サイゴンで何が起きたか

テト攻勢(1968年)とは:サイゴンで何が起きたか

テト攻勢は、1968年1月末、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム各地の都市や基地を同時に攻撃した作戦です。サイゴン、フエ、ケ…

ファン・ボイ・チャウとは:浅羽佐喜太郎との友情と独立運動

ファン・ボイ・チャウとは:浅羽佐喜太郎との友情と独立運動

ファン・ボイ・チャウは、フランスの植民地支配からベトナムの独立を目指した活動家です。日本に青年を送る東遊運動を進め、苦境にあった時には日本…

ベトミンと八月革命(1945年):ベトナム独立宣言まで

ベトミンと八月革命(1945年):ベトナム独立宣言まで

ベトミンはベトナムの独立を目指した組織です。1945年8月、日本の降伏を機に各地で政権を掌握し、ホー・チ・ミンは9月2日にベトナム民主共和…

仏印進駐とは:北部と南部、石油禁輸への流れ

仏印進駐とは:北部と南部、石油禁輸への流れ

仏印進駐とは、日本軍が1940年9月に北部、1941年7月に南部の仏領インドシナへ進駐した出来事です。北部ではランソンで短い戦闘があり、南…

トンキン湾事件とは(1964年):アメリカ本格介入のきっかけ

トンキン湾事件とは(1964年):アメリカ本格介入のきっかけ

トンキン湾事件とは、1964年8月に北ベトナム沖で起きた米軍艦艇への攻撃と、その後の攻撃報告を指します。2日の攻撃は実際にありましたが、4…

ホー・チ・ミンとは:何をした人?生涯と独立運動

ホー・チ・ミンとは:何をした人?生涯と独立運動

ホー・チ・ミンは、フランスの植民地支配に抵抗し、1945年にベトナムの独立を宣言した革命家です。ベトナム民主共和国の主席として戦争を指導し…

要約